自分の中の一部分だった「日本人」 という一部分を、誰かが勝手に取り出して、それは風船のように膨み、さらに強制的に持ち歩かなければなけないような感覚。勝手に他人が膨らませたものでも、自分が勝手に膨らませたのでも、なんとも居心地が悪く恥ずかしい。
でもこの風船は誰が作ったんだろう?
二十八年間日本で、日本人として育ったから、国籍を通して自分というものを他者に見られている経験が無かった。
世間を知らなかった。
日本語の世界、というモノリンガルの内に私は守られていた。
だからいつでも大勢の中の一人でいることができた。
風船を嬉しそうに持つ人、しぼんでいくのがこわい人、空に向けて手放そうとする人。誰かに破られようとしたら、必死に守ろうとする人々。風船が破れる音を聞くのは誰も好きではない。
ウィーンの学校が始まったばかりのころ、ドイツ語のクラスで一緒になったデンマーク人の女の子が私に言った。
「ワーオ!あなた遠くから来たのね!」
そ、そんな、人のことをチェブラーシカみたいに珍しい生き物扱いしないで下さい。
あれから1年経ち、ベビーシッター先の子どもが教室から出てくるのを待っている間、インターナショナルスクールの廊下に貼られた世界地図をなんとなく眺めていた。
本当に私の生まれて育った国は、ヨーロッパから見るととても遠かった。私は地理に疎いうえに、日本で作られた日本が中心に描かれている地図しか見たことが無かった。
あの女の子が言ったように、日本は東の果て、地図の右端っこにぽつんと存在するへんてこな形の島に見えた。
なんとも情けないコペルニクス的転回である。
私の内省世界は、外の世界と常にインタラクティブな関係を望んでいる。
しかし、住んでいる場所が変わったり、外国人になったからといって、私の世界は卑屈になることはない。むしろどんどん新しい言葉や匂い、知らなかった芸術や表現を知って、強さを増す一方である。
私のこの望みを奪おうとするものを、社会では差別と呼ぶらしい。
傷つきやすい人は強くなるしかない。納得できないかもしれないが、仕方がないことだ。
しかし同時に、いかなる思想も他者の望みを奪ってはならない。
住み慣れた世界を出て冒険したい。例えバベルの塔が両親と一緒に作れなくなってもいい。他の言語世界を見たいと幼い頃から思い続けていた。
今私はヨーロッパにいる。冒険したいと言っていた割には、日本語からの家出に成功し、はしゃいでいる。年の割には青臭い少女のようだ。
外国話についていけなくて人をいらいらさせたこともある。いらいらしたこともある。言葉がわからない人に、不親切だった自分も居る、仲間に入れてもらえなかった自分は、過去にも現在にも未来にも居るだろう。ありえない勘違いもしてもう話すことができないくらい関係が悪化した人達も居る。人間関係をどうやって作ればいいか、ここで出会った人に教えてもらった。
夏目漱石じゃあるまいが、個とは何か、毎日見せつけられている。
溺れないように腕を摑みあっている。その景色こそが孤独というものなのだろう。
ならば溺れる勇気を持って、時には水を飲みながら、色々な水泳のフォームを身につけていくしかない。
trading water
私は一箇所に、からだを固定したくない。
学校から駅の出店へケバブを買いに行く途中、何が自分にとって幸せか考えた。
比喩としても直接の意味でも、自分の足で歩いていることに、私は幸福を見出していることに気が付いた。
アトリエは国立の機関らしくお金が無いのか、雨漏りはするしヒーターは壊れているし、9月の初めだというのに既に肌寒い。
それでも私は毎日が歓びでいっぱいだ。
そしてどこの国も、人はいつか死に、思い出だけが残る。
その自然でシンプルな仕組みのなかに、私の芸術はあるのだろう。